五番町
ポケモンGOで「五番町」の由来板の場所が分かったので
事務所に行く前に寄り道しました。
幾度となく通る道ですが意外と気づかないものです。
「六番町」のお隣「五番町」はこの由来板によれば
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
江戸城外郭門のひとつである市谷御門(現・JR市ヶ谷駅付近)があったこの町は、旗本屋敷が整然と立ち並んでいたようです。明治時代にこの地に付けられた町名は土手三番町で、五番町と改称されたのは昭和十三年(1938年)のことです。
江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。また、ほかの番町と同様、この界隈も文人たちに愛された町でした。
フランスの風刺画家であったビゴーや、「婦系図」「歌行灯」などで有名な小説家の泉鏡花も、明治時代の一時期ですがこの町の住人でした。夏目漱石の門下生で、「山高帽子」「ノラや」などの作品で知られる小説家・内田百閒は、昭和十二年(1937年)からの十年あまりをここ五番町で過ごしました。数多くの随筆で知られる百閒は、「東京焼盡」のなかで、戦場ルポライターのような確かさで、空襲のさまを描写しています。彼の邸宅跡地には、現在、番町会館が建っています。また、昭和二十九年(1954年)に「驟雨」で芥川賞を受賞した小説家・吉行淳之介もこの五番町の住人でした。
落ち着いた風情を色濃く残す五番町の趣は、こうした偉大な文人たちによって培われてきたものなのです。
とあります。六番町も五番町も芸術家や文豪に好まれた街のようです。
まさかこんなにもポケモンが生息する街になるとは思ってもいなかったことでしょう。