九段四丁目
今回の町名由来板は『九段四丁目』です。
九段北四丁目も九段南四丁目もありますが、
ひとまとめで『九段四丁目』となります。
JR市ヶ谷駅を出て靖国通りを挟んだ右左の地域が『九段四丁目』で
靖国神社に向かって左手が『九段北四丁目』で右手が『九段南四丁目』です。
そしてこの由来板には以下の記載があります。
『九段四丁目界隈は、江戸時代から昭和初期まで三番丁・四番丁と呼ばれていました。九段北と九段南を分けて走る靖国通りも、かつては三番丁通りと呼ばれ、幅が8メートルほどの細い道でした。武家の屋敷町ということもあり閑静な通りだったそうです。
かつて、旗本一番組から六番組まであった徳川家の親衛隊が江戸城の西側に住居を与えられ、旗本の町をつくったのが、番町の名のおこりでした。しかし、明治維新に際し、徳川慶喜の跡を継いだ徳川家達が静岡に領地を与えられて江戸を離れると、旗本がこれについていったため、一時は町内が閑散とした状態だったようです。その後、官有地として公人の住まいに転用されたり、商家が登場したりするなどして徐々に賑わいを取り戻していきました。隣接する九段三丁目界隈は、上三番町と呼ばれ花街として栄える一方で、九段四丁目は下三番町と呼ばれ、上三番町を支える商人街として発展してきたのです。
昭和八年の区画整理にともなう町名変更のとき、住民の意志を反映して初めて「九段」という町名が誕生しました。そして下三番町地域と四番町の西側半分が一つとなり、九段四丁目となったのです。
もともと下三番町時代の大正八年(1919年)に、氏神である日枝神社(千代田区永田町)の町会神輿を維持していた「三番町睦会」が、関東大震災と太平洋戦争という大きな試練をのりこえて、現在の九段四丁目につながっています。先人たちが命がけで守ってきた大神輿は二代目となりましたが、江戸文化を継承し、また、江戸天下祭「山王祭」の一翼を担うという自負心が、九段四丁目気質となってしっかり受け継がれています。』