霞ヶ関
久しぶりに「町名由来板」です。
今回は『霞ヶ関』を紹介いたします。
『霞ヶ関』の由来版は東京メトロ銀座線『虎ノ門』駅の地上出口付近にありました。
『霞ヶ関』といっても、だいぶ端っこに、由来板が設置されていることになります。
なお、『特許庁』や『弁理士会館』へ行く場合は『虎ノ門』駅がベンリです。
由来板の目の前の建物は『文部科学省』になります。
その奥に見えているのが、日本初の超高層ビル『霞ヶ関ビルディング』です。
『霞ヶ関ビルディング』は50周年を迎えました。
そんな『霞ヶ関』の町名由来板には以下の記載があります。
『皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年〈1967年〉に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。
霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに、「霞ヶ関」と記したものもあります。
江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)、筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。
明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。一丁目・二丁目は、明治二十年代以後の官庁集中計画に基づいて、赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。
三丁目には、明治四年(1871年)、日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、三丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。』
【おまけ】
写真に写っている出入り口ではありませんが、
『虎ノ門』駅には、
地上出入り口から地下鉄駅構内の間の階段(踊り場)に
『江戸城外堀跡 地下展示室』があります。
一部ではありますが、当時の外堀が残されています。
いいですね、外堀。