平河町二丁目
今回の町名由来板は『平河町二丁目』となります。
東京メトロ半蔵門線『半蔵門』駅から国会議事堂方面に進む道の途中に
由来板はあります。
奥に写っている「ごくうらーめん」はタクシーの運転手の胃袋を満たすため
夜になると多くのタクシーが店の前に止まっています。
中での会話は、運転手同士の情報交換が多い印象です。
由来板がある側のビルには
ルイ・ヴィトン ジャパンが入っています。
そんな縁で、昨年の今頃、近くのスペースではルイ・ヴィトンのイベントが行われていました。
そんな『平河町二丁目』の由来板には以下のように記されております。
『平河町の名前は、菅原道真公を祀った平河天満宮が起源であるといわれています。しかし、この界隈が「ヒラカワ」と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからのことです。
江戸時代のこの一帯は、旗本の屋敷が立ち並ぶ武家地でした。一方、この界隈には狭いながらも商人や職人が集まる町屋も存在していました。古絵図を見てみると、武家地の北側に、湯島亀有町代地や教授所附町屋敷、木挽町四丁目裏上納地替地など、独特の名をもつ町が見受けられます。
また、現在の平河町二丁目16番あたりは、通称で「三軒家」と呼ばれていました。町会の資料によると、この呼び名は、両替商伊勢武の田中武兵衛、三河屋酒店の磯貝善兵衛、魚や伊せ彦の永田安次郎の三軒の店から付けられたようです。三軒家をかたどった図柄は、町内の祭礼等に使う手拭いなどに印され、町のシンボルとして大切に受け継がれています。
明治二年(1869年)になると麹町平河町四丁目が、同五年(1872年)には麹町平河町五丁目と六丁目といった町が誕生し、この一帯の様子も大きく変わりました。旗本たちに代わって財界人や軍人、文化・芸術界の有力者や政治家が集まり住むようになったのです。明治の洋画家の草分けとして、また美術教育者としても活躍した黒田清輝や、安田財閥の安田善次郎など、各界で指導的な役割を果たした人物も少なくありませんでした。
明治四十四年(1911年)、麹町平河町と呼ばれていた町が平河町と改名されました。そして昭和九年(1934年)、平河町四丁目と五丁目の一部、六丁目が合併し、平河町二丁目が生まれ、現在に至っています。』
現在、平河町は二丁目までですので、次回は隣接する『隼町』を紹介します。