三番町
今回の町名由来板は『三番町』です。
『四番町』の後、『三番町』を飛ばして『二番町』の由来板の紹介をしましたが、
『三番町』を見つけましたので報告します。
『三番町』の由来板は東郷公園の入り口にありました。
毎週のように行っているのに、見落としていたなんて
気づいたときはショックでした。
気を取り直して、この由来板の説明を記しますと
『江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政五年(1793年)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた「群書類従」という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治十年(1877年)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治十四年(1881年)から昭和九年(1934年)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
また、「濹東綺譚」で有名な永井荷風や、「武蔵野」の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌「明星」を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。』