永田町二丁目

今回の町名由来板は『永田町二丁目』です。
前回の『永田町一丁目』の流れで紹介します。

国会議事堂側から、首相官邸の脇の坂を下り、
下りきったところを右に曲がるとその由来板はあります。
ザ・キャピタルホテル東急を通り過ぎたあたりです。

『永田町二丁目』には日枝神社がありますが、
写真奥に写っているような蕎麦屋さんもあります。

そんな『永田町二丁目』の由来板にはこんな文章があります。

『立法の府・国会議事堂を背に山王坂を下ったこのあたりが永田町二丁目になります。左手方面には平成十四年(2002年)完成の首相官邸が立ち、隣接する旧官邸は公邸として激動の七十三年の歴史を語りつぐ役割をになっています。正面の星が岡の高台には緑ゆたかな日枝神社の杜があります。戦火をまぬがれた大銀杏と鳥居をくぐり、表参道である山王男坂を上がると荘厳な社殿がむかえてくれます。切り通しを経て立つ日比谷高校は、東京府立第一中学校時代の昭和四年(1929年)に日比谷から移転し、発祥地の名を継承しています。
かつて住宅地と商店街、高級料亭が点在した永田町は、太平洋戦争末期の昭和二十年(1945年)、木造建築物の強制撤去と五月の空襲で、わずかに官邸、永田小学校、一中の講堂、山の茶屋を残してことごとく焼失。あたりの様相は一変して、終戦をむかえました。
昭和三十三年(1958年)、日枝神社の社殿が完成し、町に復興のきざしがみえてきました。二・二六事件(昭和十一年、1936年)の舞台にもなった山王ホテルは戦後、駐留軍施設から四十四階建ての山王パークタワーとなりました。料亭「幸楽」は、ホテルニュージャパンとして復活し、さらにホテルが火災によって焼失したあとは、三十八階建てのプルデンシャルタワーになるなど、超高層ビルが立ち並ぶようになったのです。
また、陶芸家の北大路魯山人で有名な星岡茶寮は、昭和三十八年(1963年)東京ヒルトンホテル(現・キャピトル東急ホテル)に、歌舞伎俳優・初代市川猿之助や戦後の名優・長谷川一夫の住居跡も高級マンションに変わりました。歴史と文化をはぐくんだこの町も、いまでは地下鉄六線が乗り入れ、政府機関やオフィスが立ち並ぶ繁華な商業地へと変貌しつつあります。』

なんで日比谷高校ってここにあるのだろうと思っておりましたが、
由来板が教えてくれました。

また、法政大学教授 田中優子先生の『永田町二丁目と日枝神社』という文章もあります。

『この界隈は、かつては頭上をツバメが飛び交い、水辺では蟹をとることもできたそうで、風がすがすがしくわたる自然あふれる土地でした。江戸時代初期には近くに馬場がありました。その道筋に永田姓の旗本の屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれ、これが町名の由来になっています。
万治二年(1659年)、山王権現(今の日枝神社)が半蔵御門外からここに移され鎮守の森となりました。この森には溜池があり、玉川上水を引く前には江戸の水道の水源にもなっていました。権現様の森に守られ、夏は溜池の水で水遊び。旗本屋敷の庭園の緑が照り映え、茶屋が点在する――ここは、江戸のオアシスだったのです。
しかし静寂なだけではありません。神田明神と交替で隔年六月におこなわれる山王権現の本祭は、江戸時代より将軍の上覧に供する天下祭、御用祭で、じつに豪勢なものでした。行列には山車や曳物、練物、お囃子、踊りが出て、人々の装束も華麗でした。とくに大きな象の作り物をともなった朝鮮通信使来朝の練物は、江戸時代に有名でした。見物も店の前に桟敷を作り、欄干をつけ、緋毛氈を敷き、金屏風や名流百家の手になる衝立を立てたというのですから、さながら美術展です。
仏教と神道が合体した山王権現を、江戸の人たちは「山王様」と呼んで親しんでいました。その後明治政府は仏教を分離し、国家神道に組み込んで「日枝神社」としました。私はこの前を通るたびに、自然を守り、争いのない時代の権現様のいた場所として、これからは戦争のためではなく平和のためにこの地がありますようにと、心の中で山王様に手を合わせています。』

 

『永田町』は二丁目までですので、次回は『平河町』あたりを紹介いたします。